好きな文字

好きな文字_a0045621_0505460.jpg大蔵次官であった人は皆達筆なのであろうか。昨年来政府系金融機関改革が行われてきているところであるが、始まった当時、それぞれの機関の総裁が元大蔵次官であることが特に取りざたされるところがあった。大蔵次官とはどんな人か、財務官と異なり、大蔵次官が書いた本というのは余り見ない。(財務官と比べて大蔵次官の仕事は華やかさに欠けるためかと思ってしまう。確かに財務官というのはG7蔵相・中央銀行総裁会議などの会議の実務者レベルの日本代表となって取り仕切るように、日本の国際金融政策の事務方トップとして活躍する。異文化の交流も多く、国際交渉を実質的に一手に取り仕切る格好良さもあるのではないか。華やかなので書きたいことが一杯あるのかもしれない。)余り垣間見ない個人的な人格の側面についてパラっと表れるのが、自筆の署名である。これを政府系金融機関がスキャナーで読み取ってきちんと掲載している。ココココココ(最後のココの字は、個人的にはあまり美しいという気はしない)。

偉くなると揮毫する機会にも恵まれることもあろうから、小さな頃から習字だけは学ばせておくことは極めて重要であろう。字をきれいに書いておくと人に読んでもらえる(私は丁寧とは少なくとも言ってもらえている)。そして活字と同じように、書いていることがしっかり考えて書かれているように、偏見を持ってと見てもらえることがある。字が汚いとこの逆の現象が起こる。もしこれを見る子供の親である方がいらっしゃったら、私のまだ長くない人生経験から言って、習字だけはしっかり子供に叩き込んでおいてあげることは、きっと子供に感謝されることだと思いますよ。また、書道によって心も鍛錬されることもあるかもしれません。(塾に行かせるより安上がりで確実に成果が残るので、オススメ。)

さて、日本語の美しさを引き立てているのが中国から輸入した漢字。漢字は素晴らしい。大陸中国では文化大革命を経てただの音になり下がってしまったものもあり、簡体になって美しさを失った漢字が多いが、台湾には繁体文字を使っており、字は本当に美しい。意味と芸術性を兼ね備えた漢字は、読むときの効率性を高めており、沢山の記述を読むとき楽チン。そして中でも、漢字を要所でつかいつつ、音を表現するひらがなを併用する日本語の表記は本当に変化に富んでおり、読み易く美しいと思う。アルファベットは単純で汎用性に優れているけれど、アルファベットだらけの文書は飽きてくるし、変化に乏しい。漢字ばかり続く中国語はそれはそれで賑やか過ぎて疲れる。日本語の表記の適度感が好ましいと思うのである。

漢字バトン
# by danpeii | 2006-05-21 01:00 | 自己紹介

GW再発見

ゴールデンウィークというと、ただの休日の集合体であるとしか認識していなかったが、よくよく考えると、法律によって休日としてきちんとまとまっているのは、正月の他はゴールデンウィークしかないことに改めて驚かされる。盆暮れと良く言うが、どちらも法律上休めることが確保されているわけではない。(むしろ、盆暮れというと西洋っぽささえ感じる。西洋では、4月の中・下旬にセマナ・サンタ(聖週間)があり、私はこれを勝手に西洋の盆だと思っている。そして、年末にはクリスマス休暇がある。法律では決まっていないところもあるのかもしれないが、基本的にすべての人が休みを取る期間となる。年末はクリスマスから正月まで休んで、1月は2日から勤務開始。だから西洋は文字通り盆暮れである。)

夏の盆は今では多くの人にとっては有名無実化しており、盆休みなんて意識するのは、盆踊りに参加しなければならない政治家か、それと合わせて休みを取ろうと考える一部の高級官僚だけではないかとさえ思われてしまう。私にとって盆など存在したことがない。むしろ、盆なんかに休みをとっては、すべて高値で掴まされるのだから、できればオフピークを狙いたい一心から、盆を外すように休みを取ろうと画策してしまう。

何はともあれ、ゴールデンウィーク。上の流れで行けば、GWこそ、都内でじっとして、オフピークを楽しみまくるのが常道ということになるが、今年は日の並びも良かったこともあり、2泊3日で海外組の休む期間の間を縫って大阪にボスとともに帰省。二つの実家を巡ってきた。どちらの実家でも他の兄妹が帰ってきており、ちょっとした家族会になったのだが、こうして集まってしまうところを見てもやはりゴールデンウィークが現代の盆なのではないかと思われてしまうのである。憲法記念日、国民の休日、そして子供の日が我が国の「盆」なのである、と。

因みに、西洋の聖週間と外れる都合上、このゴールデンウィークは政治家にとっては絶好の外遊機会となっている。GWなので国会は休会中。そんな中、諸外国は皆普通に仕事をしている中で、基本的にどんな人とも会えることになる。先方が休み、というようなことはないのである(2月のカーニバルや8月の夏休みに出張すると、こういうことがママありそうである)。日本のまとまった休みを利用して有効に出て行けるのである。なるほど、そのために、GWが作られたのかもしれない。(と言うと、陰謀説にとりつかれているように思われてしまうのかもしれない。)

なお、海外では、日本人にはGWがあることが知られており、きちんとした観光地(イタリアやフランスのような)は、日本人相手にGW価格をふっかけることを忘れないのである。もし自分の国の休暇明け(聖週間明け)ということでオフ・ピーク価格を提示してくる場所があれば(私の知るスペインのホテル)、それは客に対するリサーチ不足か、日本人相手の商売不慣れではなかったかと思われる。

(余禄)イタリア料理「ら・ぶーか」
# by danpeii | 2006-05-07 23:49 | 四季徒然

新妻の値段

新妻の値段_a0045621_0522671.jpg会社の同期であったが、今は辞めて別の会社に勤める友人の結婚式二次会にボスと一緒に出席してきた。これもバックデートエントリー。年度末・年始にかけてどうにも手が動かず、何か情報発信モードに自分をかりたてるべく、遅ればせながら頑張っているところ。これこそmas vale tarde que nunca....

二次会では、会社の友人や、OBなんかも来ていて賑やかに和やかに進行し、わいわいと楽しい感じで時間が流れていった。二人はとっても幸せそう。

余興にオークションが行われた。友人である新郎の友人にギャラリーを経営している人がいるとかで、その人が発声をしていた。さすがプロ。上手。新郎新婦ゆかりのネタでいろんなものがオークションにかけられるなか(新居でのディナー招待券が1万2千円だったか、で落札されていた。無論本当のオークションと同じように、落札した人はその場で現金払い。普通だと、ゲームの商品として、来た人に振舞うのだが、新郎新婦もうかっていました。これも祝儀ということで、と理解できるくらい、品々も良いし、納得感からそんなに遠くない内容。斬新なアイディアで面白いとおもったけれど、下手な真似はやけどする可能性が高い、難しい余興だと思った。)、なんと、最後に新妻とマンダリン・オリエンタルのスゥイートの初夜を過ごす権利というのが出てきた。無論、これは新郎が自腹で落札するというのがオチだったため、東京都の条例に違反するような事態とはならなかったのだが、落札価格105万円は安いのか高いのか。そもそも、この場でこのオークションに参加し、会を盛り上げていた新郎の友人は本当にすばらしかった。私はボスもいたこともあり、参加できなかったが、参加してしまうと、あんまりあっさりと引いてしまっては新婦に失礼。(想像してみよ。1万5千円で、新郎に落札、と言われた新婦の心境。流石にそれは安かろう、ということになるのではないか。知らないが。。。)でも、どこまで行くのか。

オークション始まるときに、新郎も参加するという説明がなされており、新郎の原資は100万円ということが知らされていた。最初はなんのことかと思ったが、最後に新婦を落札しなければならないので、そのための原資だったというわけだ。原資の範囲内で終わっては面白くないということで、新郎の友人君は105万円まで値段を吊り上げたというわけだ。会の趣旨を良く理解したその彼のおかげでオークションの余興は盛り上がりのうちに終わった。サクラだったのかなぁ、と後でおもいつつも、MVPを上げたい心境にかられた。

こんなことを考えるのは野暮だとは思いつつも、きわどい余興だっただけに、度肝をぬかれたなぁとつくづく思った。

その他、会は沢山の厚い友情にあふれかえっており、新郎新婦の人徳と約束された幸せな将来を現しているようであった。(もしこれを読んでいたら、末永く、いつまでもお幸せに、と改めて言いたい。)
# by danpeii | 2006-04-09 22:30 | 私的社会

藤田嗣治

藤田嗣治_a0045621_0504982.jpg
今日はバックデートエントリー。その後日経新聞の夕刊1面でも連載されることになった藤田嗣治の作品を生で見に行って来た。展覧会を見に行くのは嫌いではないけれど、これが実に相当な久しぶりの美術館見学。少なくとも帰国後初めて。日本の美術館の空気やらは間違いなく相当な久しぶり。

年度を何とか命ながらえながら越えることができて、何か気分を一新させなければならないと思い、電車の中吊り広告でみかけたこの展覧会に「行きたい」という、あまり自分の中で発生しない不思議な欲求を感じた。好奇心だったり、欲求だったり、なにかそうした内面の自発的な心の動きには動揺させらるが、そのメカニズムはさておき、それを久しぶりに感じたのであった。そんな訳で、どうして藤田なのか、あまり分かっていない。多分、どこかで名前だけ聞いたことがあったので、気になっただけのことだったのではないかと思う。何故、名前を聞いたことがあるのか、藤田とはなにものか、そんな好奇心が湧いたのかもしれない。

さて、作品。別に絵に詳しいわけではないので、絵を見てああだ、こうだと評論する能力はない。出来ないことをここでするつもりはないが、藤田展では、物凄いエネルギーを感じとり、一つ一つの作品から見るものに流れてくるその力が体中の血の流速を変えられてしまいそうな気がした、ことだけは書いておきたい(こんなに日が経ってしまっているが)。そして、作品を生み出す過程で作者が抱いた悩みと葛藤がこの美術展では良く伝わってくるような配置がなされていたせいか、藤田が生きた道程がまさに凄かったのだと思う。世界をぐるぐると彷徨うあたり、さまよった挙句祖国を捨てることにならざるを得ないあたり、何か今を生きる日本人につきつけるものもあったような気さえさせられた。

そして、藤田という人物について。さまよいつづけて名声を獲得した稀代の名士を、日本特有の村八分的閉鎖性が藤田を排除してしまったのではないか、そんなことを思ってみた。日本特有ではないとすれば、それはそれで何か世界をさまよった人に共通する現象ということに終始するのかもしれないが、私の中にあるものは、それは日本人だからではなく、個人の問題ということになり、自省させられる。他方、日本特有であるとすれば、当時も今もその風潮に大きな変化がないことに気付かされ、所与の文化的素質として現在を生きる上での困難について考えさせられ、また、自らにそうしたところがないか、自らのそうしたところによって才能ある人を遠ざけてしまっていることはないか、懐の深い/浅いについて思いを致される。どのような形であれ、藤田の芸術は藤田とともに日本という共同体の名声に寄与したことは多分間違いないだろう。本人は自覚はなくとも、共同体につくした人と言えるのではないか。こうした人を共同体のためにつくしたとみなせないならば、それがまさにここで書いている懐の浅さそのものということになろう。しかし共同体のために尽くす一方で、人は個人であること以上の意味はない。まさに自覚のない部分である。こうした自覚のない共同体への「結果としての」貢献と思うとき、何かそこはかと知れない葛藤した気持ちが胸にたぎるのである。藤田の作品は、胸をたぎらせる。

藤田展
# by danpeii | 2006-04-02 22:48 | 個と社会

友達の旅立ち

毎年のことながら、3月になるのはあっという間です。正月越えたら、1月はイク、2月はニゲル、そして3月はサル。分かってはいるのですが、今年も3月下旬になることに軽い衝撃を感じながら、今日を迎えています(明日さえ休めば4連休なのだけれど、年度末のこのタイミングにそんなことは無理、というのも無念極まりないのですが)。3月は私にとっては年度末。そして私の仕事では、結構異動のタイミングでもあったりします。
友達の旅立ち_a0045621_0362016.jpg


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# by danpeii | 2006-03-20 00:38 | 四季徒然

マイペース、お気楽、ノン・タイムリー日記
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